南部杯優駿伝説

マイルチャンピオンシップ南部杯の思い出を語るリレーコラムです
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最終話 I shall return to 南部杯!/井上オークスさん
 JR盛岡駅前8番バス乗り場から、いそいそと無料バスに乗り込む。欲望を乗せたバスは街を抜け、北上川としばし併走し、やがて山道を登りはじめる。どんどん登る。ひたすら登る。すると視界がパカッと開けて、オーロパークが現れる。

――この秋も、南部杯を観るために盛岡競馬場に来ることができた!

 標高2038mの岩手山を上回るハイテンションに身をゆだねて入場門をくぐると、色黒の男前が爽やかな笑顔を浮かべていた。

東幹久さん

 岩手競馬CMキャラクターの等身大パネルに、「東幹久登場!!」という文字が躍っている。てことは、本人が場内にいるってこと!? ミーハーまるだしでキョロキョロしていると、おかしなことに気がついた。

――なんだか、やけに静かだな。

 去年の南部杯デーは、もっとにぎやかだった。首をかしげつつ、手元の競馬新聞を見る。今日は10月6日(月)。南部杯は……10月13日(月)!?

 アハハ。あたしって本当におばかさん。1週間まちがえちゃった。絶望に打ちひしがれて、ふらふらと場内をさまよう。気がついたら、パドックに来ていた。第8レース出走馬を眺めていると、一度しおれた欲望がムクムクと頭をもたげてくる。わしゃパブロフの犬か。なんて自己ツッコミをした、そのときだった。

――バルクが出とるやないか!

 去年の夏。日本中の競馬場が、馬インフルエンザに襲われた。わしはいつ競馬開催が中止になるかとビクビクしながら、水沢競馬場に通った。そしてやぶれかぶれな気持ちで、39戦0勝の4歳牝馬バルクの単勝に1万円突っ込んだ。すると。

 岩手のバルクは通算40戦目にして初勝利をあげ、わしを不安と金欠から救ってくれたのだ。

 2007年は、競馬場でレースが行われるという当たり前の光景を心底ありがたく感じた1年だった。諦めるのは簡単だ。息を切らして走り続けることのほうが、ずっと難しい。2008年、5歳になったバルクは今、元気にパドックを闊歩している。彼女はあの初勝利をあわせて5勝している。

――賭け続ければ道は開ける。かもしれん。

 ギャンブラー魂に火が点いて、烈火のごとくマークカードを塗りつぶす。バルクの単勝に1500円で、どや!


8R バルク

 南郷家全またがるバルクは、スタートダッシュを決めてハナを切った。が、菅原勲またがる本命馬が、バルクをピタリとマークしている。

――ああっ、あんまし突っつかないで勲さん!

 しかしバルクは名手のねっとりとした攻撃に耐えて、先頭を譲ることなく4コーナーをまわった。ところが盛岡競馬場の直線は長かった。残り150mで力尽きて、バルクは4着。勝ったのは小林俊彦またがるモエレタキシードだった。ヘクション!

 雨に濡れてくしゃみを連発するわしを哀れんだのか、常連のおじさんがホットコーヒーをごちそうしてくれた。みちのく人情に心身を包まれて、人間らしい気持ちを取り戻す。しぶとく粘ったバルクさん。これからもがんばってね。

 第9レースの2歳戦・黄菊賞の馬柱を見て、韓国・釜山のキョンナム競馬場へ行ったときのことを思い出した。

「メイセイオペラ、ビワシンセイキ、ボレロ、ヤシマジャパン。済州島の牧場で、ジャパニーズホースが種牡馬をしているんですよ」

 馬主をしているという男性はそう言って、にっこりほほ笑んだ。わしはその親しみのこもった笑顔と、異国で日本馬の名に接したことが嬉しくてしょうがなかった。てなわけで、黄菊賞はビワシンセイキ産駒のワタリシンセイキの単勝で勝負じゃ!

9R ワタリシンセイキ


――くわ〜!!

 後方でレースを進めたワタリシンセイキは、直線で懸命に追い上げるも4着まで。勝ったのはサクラプレジデント産駒のハイメリーだった。鞍上は若手成長株の高松亮。単勝は4350円もついた。

――1000円、いや、100円でも買っておけば……。

 残りの種銭は2000円ぽっきり。ため息をついたとたん、お腹がグウと鳴った。そういえば、朝からなにも食べていない。ジャンボ焼き鳥くいてえ。

 第10レースのM&Kジョッキーズカップは、ミラクルジョンコに奇跡を起こしてもらうことにした。

10R ミラクルジョンコ

 しかし奇跡は起こらなかった。勝ったのは高松亮またがるカツイチヴィーナス。またしても高松亮。メイセイオペラと菅原勲のコンビに魅入られて騎手を志した若者に、乗っかるべきでした〜。

 最終の第11レースは、南部杯カウントダウン7。目を皿のようにして、穴馬を探す。すると勝ち馬が見えた。3歳牝馬バトルアイが、父の無念を晴らすのだ。1997年の南部杯で1番人気に推されるもタイキシャーロックの2着に敗れ、メイセイオペラが勝った1998年の南部杯では4着に甘んじたバトルラインの仔が、南部杯(カウントダウン7)を制すのだ!

11R バトルアイ


――あーれー。

 小林俊彦またがるゴールデンパンジーが、不良馬場を鮮やかに逃げ切りました。バトルアイはブービー。もう財布には100ウォン玉しか入ってません。ウォーンウォンウォン。咆哮していると、「バトルラインは道悪が得意じゃなかったからねえ」と、トラックマンのOさんが慰めてくれた。

 JR盛岡駅のお土産売り場で試食の南部煎餅をかじりながら、オケラ女はリベンジを誓う。1週間後、種銭をかき集めて盛岡競馬場に乗り込もう。そしてこれからの南部杯を語り継いでゆこう。これまでの南部杯を追体験させてくれた先達のように。来年も再来年も。10年後も20年後も。ジャンボ焼き鳥をむさぼりながら。南部杯優駿伝説は、まだ始まったばかりだ。
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第22話 メイセイオペラを訪ねて /松尾康司さん
メイセイオペラ その1 10月6日、済州島へ到着したのは朝9時をちょっと過ぎた頃だった。釜山の空港からの移動だったので入国手続きもなく、そのまま空港ロビーへ。キム・ヂョンシクさんの姿を捜した。最初、周囲を見渡しても捜せず牛山君が教えてくれた携帯電話にかけようとしたとき、満面の笑顔でキムさんがやってきた。2年ぶりの再会だった。

 お互い『アンニョンハセヨ〜』と挨拶を交わし、さっそくジュリアの写真を手渡すと『オォ、ジュリア。牛山さんから活躍を聞いていますよ。良かったですね。メイセイオペラ、元気ですよ』と話し、隣にいた申(シン)さんを紹介してくれた。

 シンさんは5年前まで大阪で暮らしたことがあるキムさんの友人の友人。わざわざ通訳のために付き合ってくれた。なにせ、こちらは英語が片言。韓国語は挨拶ぐらいしかできなかったので、この配慮には本当に助かった。

 メイセイオペラがいるプルン牧場は韓国の最高峰・漢拏山(ハルラ山)の中腹、およそ600mの標高にあり、空港から約45分。記憶に残っていた風景が次第に増え、プルン牧場へ到着。入り口近くで当歳馬7、8頭が放牧中で派手な大流星の栗毛がまず出迎えてくれた。『ぜったい、メイセイオペラの子供だよな。お父さんにそっくり!』
 その予想はズバリ的中した。


 メイセイオペラは2年前の夏、静内のレックス・スタッドを旅立ち、浦河の検疫所を経由してキムさんのプルン牧場へと渡った。GI3勝の肩書きを持ち、晴れて種牡馬入りし初年度、70頭以上の花嫁が殺到。これ以上は望めない形で第二の生活へ入った。メイセイオペラは種付けも非常にうまく、しかも早漏(これは種牡馬には絶対必要なこと)。レックス・スタッドを訪れるファンも多かったという。

 しかしトーホウエンペラーのレポートでも報告したとおり、右肩上がりで配合頭数が増えていく種牡馬はほんの一握り。多くは年々減少し、仮に増えるとすれば初年度産駒が“大”活躍したとき。今になって分かったことだが、メイセイオペラ産駒は自身の現役時代と同様、総じて奥手。現在の競馬は早い時期、特に2歳戦で目立った大物が出現しないことにはどうしても苦戦を強いられる。

 メイセイオペラももちろん例外ではなく、種牡馬生活4年目には配合頭数が3頭まで激減していた。それと前後してお隣の国・韓国でコスモバスティーユなどのオペラ産駒が活躍中。ちょうどこのタイミングでオーナーから今後の相談を受け、韓国競馬通の第一人者で知られるケイシュウニュースの牛山(基康)君に率直に話をしてみた。『メイセイオペラの種牡馬生活をなんとしても続けさせてやりたい。韓国で預かってくれる牧場がどこかないかな』と。

 その依頼を受け、牛山君は様々なネットワークを使って調査してくれた。そして『済州島がメインの生産地で日本びいきの牧場オーナーがいますよ。韓国はアメリカ、オーストラリアが主流なんだけど、日本競馬を高く評価してくれている。近々日本にきますが、オペラの話をしてみます』

 以降、とんとん拍子で話が進み06年7月8日、キムさん夫妻がオーロパークへ来場。メイセイオペラのオーナーと初対面し、契約を取り交わすための綿密な打ち合わせをした。契約内容は譲渡ではなく、3年間の無償貸与。移動費、管理費等はすべてキムさんが負担し、3年後に再度、今後のことを友好的に話し合うこととした。

 そしてこの一文を契約書の中に盛り込んでもらった。
『本馬(メイセイオペラ)は岩手の、そして日本のダート界のヒーローであることを双方が尊重しあい、本馬自身のことを最優先に考え、お互いが良き方向へ向かうよう努力する』

 実はそのとき、大恥をかいた。同日メイン・ガーベラ賞に我がジュリアが走ることになっていた。芝はデビュー戦以来2度目だが、スピードが身上なので芝が合うと確信(後に錯覚だったことが判明)し、自信たっぷりにキムさんに伝えた。『ジュリアは組合馬主の所有馬なんですが、自分も10分の1を持っています。前回勝って調子もいいので、馬券を買ったほうがいいですよ』

 嗚呼、しかし。ジュリアはまったく走らず、12頭立て11着。大敗を喫して面目丸つぶれだったが、キムさんはしっかりと覚えていた。『あのとき、ジュリアの単勝を買いましたが、見事外れでしたね』。こちらは恐縮し平謝りするばかり、みんなは大爆笑だった。

メイセイオペラ その2

 メイセイオペラとの再会の瞬間がきた。馬房前で入念な手入れを済ませ、モンゴル人の担当者が引っ張ってくると、ちょっと興奮気味だったようで後ろ脚で立ち上がって威嚇する。さすがにビビッてしまったが、徐々に落ち着きを取り戻していく。それでも容易に触らせることはなく、決して人懐っこくはない。つねに凛として独特のオーラを全身から発していた。

 静止ポーズを撮るのにも一苦労だった。自分の意思をはっきり表わし、なかなかカメラに収まってくれない。これもメイセイオペラらしかった。それから30分ほどが経ち、ようやく解放されたメイセイオペラは自分の住まいに戻り、何度もこちらの様子をうかがう。放牧地に生えていた草を与えると喜んで食べていたが、嫌いな草はうまく口から出し、再びボリボリ。その音もなかなか豪快だ。よく食べ、よく動く。韓国・済州島へ移動後、病気らしい病気は一度もなく、いたって健康。現在、14歳。種牡馬としてまさに男盛りを迎え、2年前よりさらに逞しくなった印象を持った。
メイセイオペラ その3

 メイセイオペラはビワシンセイキと同じ屋根の下で住み、目の前が放牧場。わざわざ荒地を切り開いて斜面のはるか向こうには玄界灘を望める。オペラが日本を恋しくなったとき、いつでも海の先には故郷があるから安心してくれ、というキムさんの配慮からこの場所に厩舎と放牧場が作られた。

 取材日はあいにく曇り模様だったが、かすかに白い海が見ることができた。ここでもメイセイオペラは大事にされ、愛され続けていた。本当にありがたいことだ。

 キムさんが『メイセイオペラの当歳馬がいるから、見に行こう』と連れられていき『この子供がそうですよ』と言った瞬間、思わず叫んでしまった。
 “やっぱり!!”

 オペラの子供は3月生まれで他の馬に比べて一回り大きく、ボス的な存在だった。とても人懐っこく、近づいても怖がらない。ふじポンがチューをしても困らず?されるがまま。『生まれた子供たちは骨量があって生産者の評判も上々です。2年後、韓国生まれのオペラ産駒のデビューする日を楽しみに待ってください。私も心待ちにしています』とキムさん。
メイセイオペラ その4

 済州島の滞在時間はわずか6時間。本音を言えばもう少しゆっくりしたかった。強行スケジュールを組んでちょっと悔いも残り、一泊でもできたらなとも思ったが「たら、れば」はやめよう。わずか6時間だったからこそ、凝縮されたときを過ごすことができたかも知れないのだから。


 帰国後、バタバタと南部杯の準備をしている中、小西調教師から電話がきた。「松尾さん、どうします。おそらく除外だろうなと思っていたら、選ばれそうですよ。調子は悪くありません。でもねェ、相手が相手ですからね。みなさんのご希望どおりでいいですよ」
 
 正直、迷った。組合馬主なので自分一人では決められないし、南部杯は岩手が誇る正真正銘のGI(あえてそう言わせてもらう)。出るだけ…では失礼だし、第一ジュリアにはあまりにも厳しいレースであることは、火を見るよりも明らかだ。
 
 メンバーに相談したところ、意見は同じ。結論は「最終判断は小西さんにお任せしますが、メイセイオペラが初GIを制した南部杯に選ばれるのも何かの縁かも知れません」だった。
 
 南部杯の格を落とすのか―の批判は素直に受け止めよう。客観的に見ればジュリアは持ち味のスピードすら生かすことができず、大敗するのは目に見えている。菅原勲騎手の言葉じゃないが、GIは別格だ。
 
 それでもメイセイオペラに感動し、いろいろな夢をもらった一人のファンとしてメイセイオペラ産駒が南部杯に出走すること、それ自体が大きな夢だった。
 ならば、栄えあるGIに選ばれたことを光栄に思おう。まだ夢の途中だけど。


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第21話 南部杯を勝った3頭の思い出 /岩手競馬騎手 菅原勲さん
菅原 勲 01
 トウケイニセイのころは、交流レースといえば帝王賞くらいで、今のような交流という時代ではなかった。(旧)9歳の時に、中央との交流レースになって、もう力が落ちてきたころだったけれど、いい勝負をしてくれそうな感じではあった。どこからレースをしてもいい馬だったし、(脚元の不安のあった馬ですが)調子の上下を感じなかった。厩舎ではかなり手をかけていたんでしょうね。
 でも、レースでは3コーナーあたりからヨシノキングとライブリマウントについて行けなくなった。せめて(全国交流になるのが)1年早かったらと思いましたね。
 あのころはトウケイニセイが出ればいつも人が集まっていたけれど、あの日はパドックからすごかった。

菅原 勲 02

 メイセイオペラの時は馬自体に力があって、通用すると思っていたからプレッシャーもなかった。調子も良かったし、自信を持ってレースに臨みました。ただ、逃げるか、2、3番手で競馬をするかは迷っていたのですが、当日雨が降って馬場が軽くなっていた(ので逃げの手を選んだ)。4コーナーを回って直線を向いたあたりで手応え十分だったから、勝てると思いましたね。
 盛岡の1600mがベストの馬だったし、今でもレコードタイムが残っているのはうれしいですね。交流レースのあるところは、どこでもJRAの馬がレコードタイムを塗り替えていくからね。

菅原 勲 03

 トーホウエンペラーは動きのカタい馬だったし、乗りやすい馬ではなかったですね。ササるクセもあるし、ゲートも少し悪かった。あの時は左回りだけが気になったけれど、スターリングローズが内にいて、外の5、6番手あたりから内に閉じこめるように乗っていったのが上手くハマったレースだった。2着にもバンケーティングがついてきて、G1での1、2着が岩手の馬になった。また、そういう馬が出ることを祈りたいですね。あのレースのあとの声援はすごかったからね。

【10月8日取材】
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